死にたいなんて嘘っぱちさ
私は半年くらい前から本ブログで「死にたい」と書き綴ってきた。
―――しかし、それは嘘なのである。
何故なら私は死んでいないからだ。
死にたいと宣いつつ、体を傷つけるわけでもなく、時には鮨なんぞ食べて、大学も最低限の単位は取れるよう通っている。
これのどこが「死にたい」人間なのであろうか。
嘘と言っても故意の嘘でないことは確かである。
と言いたいところだが当時から、死にたいと願ったときに本当に死にたいと思っていたかは甚だ疑問だ。
死さえ望めば私は全ての責任から逃れられるのかと勘違いしていたのかもしれない。
「死にたい」と言ってみれば目の前のプレッシャーから逃げられると、怠惰な私の性質から、汚らわしい私の過去からでさえ勘違いしていたのかもしれない。
本当にあさましい限りだ。
たった今、図書館にきて勉強をしようとしていた。
席に座りおよそ6時間。ほとんど教本の内容は進んでいない。
私の前の席に小学校の同級生も勉強していた。
私より早くに席についていた彼女は6時間もの間席を立つことなく黙々と勉学に励んでいた。
つまりはそういうことなのである。
私がうじうじ死にたいと宣い、悩み、現実逃避をしている間にできる人間はできるのである。
飯を食らい、立派にテレビで笑い、勉強でさえも逃げてきた私が「死にたい」と宣うことなどあってはならないのである。
人並みにできないのはすべて私の怠惰によるもので、最終的に私が自身で解決をしなけえばならないことなのである。
全く持って申し訳ないことをした。
親は貧しい中で産み育てた私がせめて中流階級で平凡で苦労しない「普通」の人生を歩めることを期待していたであろう。
残念。はずれを引いた。ガチャで言えばNどころの話ではない。
これまでも多くの人が私に失望をした様を見てきた。最初は「やり直そう」と思って気合を入れ、どうにか普通になろうと努力してきた。
そのたびにかつての担任は、級友は、様々な知人は好意的に受け入れてきて、例外なく失望して去ってゆく。
その顔を忘れることはできないのだ。
小さい頃から親の喧嘩が絶えぬ家庭に育った他人の心の機微には敏感なつもりであった。だからこそ分かる話がある。
死に覚悟もない、しかし生きてゆく実力はない。
せめて、何か一つくらい本気で成し遂げなければならないものを…。