日記

大学生が公務員試験の勉強をします。モチベーターとしてどうぞ。

死んでいってしまいたい

自己嫌悪とか希死念慮の発端って本当に些細なもので、毎日死にたいと思うんですよね

毎日死にたいと考えているのにもかかわらず、こうして漠然と生きているわけですが

毎日死にたいと考えるその人をしり目に、毎日死にたいと冗長に、ほざいているわけですが

その内実、死にたいわけでもなくて、かつ生きたいわけでもなくて

何か自分自身を自分が許せていないわけと言いますか

何となくの無力感とか愛のない実感みたいなものがひしめき合って、自分を攻め立てているわけなんですよね

じゃあどうしたら自分を許せるかというと、世間から許されることが手っ取り早いと思うのですが

自分が世間を許してないのに、自分だけが許されたいというのは

典型的なメンヘラ的思考でありまして

じゃあ結局何なのかって話なんですけど、こんな風に何か文章を打っていないと自己否定を交わしきれないというだけであって、

結局、人に読ませる文章を書いていないわけです

そんな人間が世間から許されたいというのは、傲慢極まりない話でありまして、結局何だって話なんですけど、よく分かんないんですよね

自分自身は死にたいのですが、このまま死ぬのはもったいない気がして、さすがに親不孝なんじゃないかと思っていて、じゃあ自分の存在意義ってそれなのですが、何となくもっと欲しがってしまっていて、自分自身がもっと能力があればもっとなぁなんて考えるわけです

 

確かに親に申し訳の立たない人間ではあるものも、なんとなくここまでやってきただけ偉いななんて考えているわけでもあります

トンビは鷹を生みませんが、仮に鷹の能力が得られたとして、他の部分をスズメ並みにされて、プラマイゼロにされている気がするんですよね

どうにか日常は、その日一日の1動作を定型発達に合わせるだけで、猛然と疲れていってしまうんですよね

だから何かって言いますと、生きるのがしんどい(笑)ってわけです

ただし死にたいとも思うんですが、何となく何かのきっかけで猛然と死にたくなってしまうんですよね

だからこそ自分はもう死にたいですね

 

最後までゲームとかをやるのって昔から嫌いで、ポケモンとか大抵チャンピオンロード手前で終わらせていた人間なんですよ

何となく飽き性で、日ごろもそうやって生きているから継続がものすごく難しくて、それだと生きるの向いてなくて、リセット癖のように死にたいと思うんですよね

 

死にたい partetc

毎日死にたいと思っているのにもかかわらず

死ぬことが出来ない

毎日死にたいが

もう死ぬことができない

なぜ死ねないのかと考えたら

しにたくないからだとかんがえた

二度と死にたいと思う者かと思うと

また死にたくなる

夜中の二時にトラウマを思い出して

泣いている

それでも死にたくないのです

死にたいと

死にたくないの

狭間で

毎日絶望に、心地よい悲哀に身を沈めることが

気持ちいいのかもしれない

死にたい?焦燥感?

図書館で勉強をしているがすぐにでも立ち上がって叫びたい気分だ。

焦燥感で座っていられない感覚がする。

死にたい死にたい死にたい。

 

目の前のタレ目の男の子が自分をバカにしている気がする。

 

聞こえてくる囁き声が自分への悪口である気がする。

 

誰かの足音が自分を責め立てている気がする。

 

死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい。

 

心当たりはない焦燥感で周りが敵になった。

 

これは来るぞ。

 

死にたいとのウィークが。

 

毎日挫折している。

 

明日はきちんと集中しよう、明日はたまっている書類手続きをしよう、明日は朝早く起きようなどなど。

 

しかし私は20年間挫折しかしていない。それは何故だろうか。

 

誰か切に教えてくれないだろうか。

 

いや、知っている。自分のマヌケさだ。生粋の怠惰。生まれながらのクズ。

死にたいなんて嘘っぱちさ

私は半年くらい前から本ブログで「死にたい」と書き綴ってきた。

―――しかし、それは嘘なのである。

 

何故なら私は死んでいないからだ。

死にたいと宣いつつ、体を傷つけるわけでもなく、時には鮨なんぞ食べて、大学も最低限の単位は取れるよう通っている。

 

これのどこが「死にたい」人間なのであろうか。

 

嘘と言っても故意の嘘でないことは確かである。

と言いたいところだが当時から、死にたいと願ったときに本当に死にたいと思っていたかは甚だ疑問だ。

 

死さえ望めば私は全ての責任から逃れられるのかと勘違いしていたのかもしれない。

「死にたい」と言ってみれば目の前のプレッシャーから逃げられると、怠惰な私の性質から、汚らわしい私の過去からでさえ勘違いしていたのかもしれない。

 

本当にあさましい限りだ。

 

たった今、図書館にきて勉強をしようとしていた。

席に座りおよそ6時間。ほとんど教本の内容は進んでいない。

私の前の席に小学校の同級生も勉強していた。

私より早くに席についていた彼女は6時間もの間席を立つことなく黙々と勉学に励んでいた。

つまりはそういうことなのである。

 

私がうじうじ死にたいと宣い、悩み、現実逃避をしている間にできる人間はできるのである。

 

飯を食らい、立派にテレビで笑い、勉強でさえも逃げてきた私が「死にたい」と宣うことなどあってはならないのである。

人並みにできないのはすべて私の怠惰によるもので、最終的に私が自身で解決をしなけえばならないことなのである。

全く持って申し訳ないことをした。

 

親は貧しい中で産み育てた私がせめて中流階級で平凡で苦労しない「普通」の人生を歩めることを期待していたであろう。

残念。はずれを引いた。ガチャで言えばNどころの話ではない。

 

これまでも多くの人が私に失望をした様を見てきた。最初は「やり直そう」と思って気合を入れ、どうにか普通になろうと努力してきた。

そのたびにかつての担任は、級友は、様々な知人は好意的に受け入れてきて、例外なく失望して去ってゆく。

その顔を忘れることはできないのだ。

 

小さい頃から親の喧嘩が絶えぬ家庭に育った他人の心の機微には敏感なつもりであった。だからこそ分かる話がある。

 

死に覚悟もない、しかし生きてゆく実力はない。

 

せめて、何か一つくらい本気で成し遂げなければならないものを…。